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亀岡から京都の嵐山までの約16キロメートルの渓流を下る舟下り
「保津川下り」の終点で、川幅が広がる京都・嵐山の渡月橋付近。
台風18号の大雨による濁流が狭い渓谷から一気に流れ込み、
あふれた水が周辺の旅館やみやげ物屋を襲った。
嵐山と亀岡を結ぶトロッコ列車が17日も運休を決めるなど影響は続いている。
渡月橋、橋脚などに流木が絡みついていたり、
嵐山公園は遊歩道がえぐり取られ、陥没している場所もあるなど、
被害の大きさがうかがえる。
一夜明けた17日、
旅館関係者や住民らが復旧作業を本格化させたが、
「復旧のめどが立たない・全部こちらから電話してキャンセルさせてもらいました・
改修・修繕費のほうがすごくかかります・これから観光シーズンなのに」
等落胆の声も多く聞こえて来ている。
じつはこの渡月橋には
渡月橋を恋人、または好きな人と一緒にわたっているときに、
絶対に振り返ってはいけない、もし振り向いてしまうと、
別れてしまうというジンクスあるという。
どこからそのようなジンクスが来ているのだろう?
渡月橋は承和年間(834-848)に僧、道昌(どうしょう798年- 875年)が
大堰川(おおいがわ)の堤防を改築した際に橋を架けたのが始まりとされていてる。
現在の位置には後年に角倉了以が架けたとされる。
亀山上皇(1249年-1305年)が、橋の上の月が動く様を眺めて
「くまなき月の渡るに似る」とめでたことから渡月橋と名付けらた。
渡月橋のたもとに、『琴きき橋跡の碑』が立っている。
『一筋に雲ゐを恋ふる琴の音に ひかれて来にけん望月の袖』
という歌が刻まれている。
高倉天皇中宮徳子に仕えた宮中一の美女で琴の名手として知られた小督は、
高倉天皇の寵愛を受けたが、それが中宮徳子の父、平清盛の逆鱗に触れ、
内裏を出て嵯峨野に隠れ住んだ。
清盛は、自分の娘の中宮徳子が生んだ子供を天皇にしたいのだ。
実際に中宮徳子の生んだ言仁親王が後に壇ノ浦に沈んだ安徳天皇になった。
それでも小督を諦められない高倉天皇から捜索の命を受けた源仲国は、
彼女の琴の音を頼りに居所を尋ね当てた。
宮中に戻った小督は再び天皇の寵を得、皇女を生むが、
清盛の目をのがれることはできず、
尼にされて宮中を追われてしまう。(平家物語)
この石碑は小督の弾く『想夫恋:雅楽の名曲)』を
仲国が聞いたと伝えられる橋の跡に建っている。
『琴きき橋』って『渡月橋』とは同一かどうか・・・
『渡月橋』が移動された場所に『琴きき橋』があったのかどうか・・・
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